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人工知能システム実現への考察



人工知能実現へのアプローチとして、有名なのがチューリングテストである。
これは人間が(人工知能とわからないよう)人工知能と対話して、何%かが人工知能と見破られなければ合格というものだ。
たしかにこのテストで合格できるようになれば、そうとう情報工学の分野も発達したと考えられよう。

しかし、だからといって安直な会話ルーチンで語彙数を増やして理解度を増やしてあたかも人間に見せようなどというプログラムは片腹痛い。
仮にそれができたとしても、それは人工知能とは言いがたい。
なぜならそれは所詮ただのエキスパートシステムであり、知能ではない。
重要なのは知能をシミュレートすることなのだ。


例えば、実は地球の周りを太陽が回っていたとしたらどうだろうか?
我々の生活に何か影響を与えるだろうか?
例えば、幽霊は実在していて常に我々の周りで生活しているとしたらどうだろうか?
我々の生活に影響を与えるだろうか?
我々は知覚できないにもかかわらず。

つまり、知能を考える際に外部に何が存在するか、ということはまったく関係がない。
重要なのは、知能が何を知覚できるのか?(矛盾が生じない範囲で)
ということだ。

ということは人工知能が知覚できるものを極限まで減らすことが可能なのである。
とどのつまり将棋に関するものしか知覚できない人工知能というのも有りなのである。
もっと言えば、○と×しかない世界というものでも良い。
もっともそれで何ができるかという疑問はあるが。

将棋ソフトと違うことは「将棋に勝つためのソフトではない」ということだ。
つまり、将棋の駒、盤、対戦相手しか知覚できない世界での知能を構築する。
ただし知能は記憶をあらかじめ用意することはできないので、教育する必要性がある。
そのときに普通の将棋ソフトと違うところは、自分が知覚できる範囲、
すなわち駒、盤、対戦相手があれば、挟み将棋などのゲームのようにできるゲームは全て教育次第で教えられるようなシステムになるはずである。

結論として、人工知能というものは汎用的なものになるはずだ。
同じプログラムを利用して、
将棋用の人工知能がほしければ、知覚できるものを将棋の道具だけにすれば良い。
オセロ用の人工知能がほしければ、知覚できるものをオセロの中のものだけにすれば良い。
しかし、少しでも現実世界のものを取り入れようとすると、とたんに複雑性という中におぼれてしまうのは間違いないであろうが。
逆にいえば、知覚範囲を知能の証明をできる最小単位までに絞り込めれば、案外人工知能の実現はそれほど遠いことではないのかもしれない。

2001/8/14:追加
「知能そのものはは認知可能な外部環境はどうでもいい。」
という結論を出しているが、これって良く考えたら、チューリングテストを真っ向から否定していることになる。
そうなると改めて必要になるのは、知能とは何かの定義だ。

人工知能で考えられる応用範囲の中では、自ら失敗を学習し、発展ていくエキスパートシステムのようなものも考えられ、この場合人間と同じ脳の構造をしている必要はまったくない。
つまり知能=脳ではない。
と、思ったが上記の例の場合認知可能な外部環境が変わっただけなので、知能=脳と考えても良いといえる。
しかし、ここで重要なのは人間の脳と人工知能の重大な違いは、入力システムと、出力システムだ。
人間には五感があるが人工知能には存在しないしそれは必須の機能ではない。
つまり知能=なんらかの入力に対し、なんらかの出力を行う脳といえる。

とりあえず、ここまで定義できれば、認知工学の世界や人間の複雑な体の仕組みをまったく考えずに、人工知能のみに研究対象を絞ることが可能になる。

では脳とは何か?
さきほどなんらかの入力に対し、何らかの出力を行うと定義したが、これだけではただのソフトも知能になってしまう。
この続きは以降の文にも関連するのでさらに文末で書くことにする。


意識と無意識

「思考の結果」と、「思考の過程」を考えてみると、実が「思考の結果」がまず先に出てきて、その後に「思考の過程」がついてくることに気がつく。
これは非常に興味深いことだ。

このことは「思考の結果」は無意識のレベルから出現し、それを理由付けを行いたいときに意識レベルにおいて「思考の過程」を再現しているのではないか?
では、無意識レベルではどうして、このような高速な検索が可能なのか?
ということを推察すると、無意識レベルでは物事は常に「問題⇔結果」の関係で直に結び付けられているのではないか?
つまり、「理由」の段階を排除することにより、物事の判断速度を高速化するわけである。
そして、「理由」が必要になったときには意識レベルまで問題を投げて、そこで改めて再現を行うのである。

結論として、無意識かでの記憶の最小単位は「問題⇔結果」なのではないか?

この「問題⇔結果」を直に結びつけるための作業が、短期記憶から長期記憶への以降ではないかとも考えられる。


脳の構造

脳の構造は複雑である。
小さな細胞が豆腐みたいに3D状に積み重なっているのだから、相当複雑なはずだ。
このような複雑な脳細胞のネットワークにおいて、
コンピュータにおける簡単なツリー構造などで、人工知能を表現できるわけがない。
また、コンピュータ屋的に考えてしまうと、関数が質問をしたらつい返事を期待してしまうが、
入り組みすぎたネットワークでは答えが自分のところまで帰ることを期待するのは不可能だ。

では、どうすればいいのか?
答えを要求しなければよいのである。
つまり処理を「入り口→記憶→出口」一方向に限定してしまうのだ。
入り口は答えが出たことを気にする必要はなくなる。

入り口は複数の並列処理のスレッド(が脳細胞にあたるのだろうか?)に一斉に問題を解けと指令を出す。
そして記憶をとおり、スレッドがスレッド呼び0〜N個の解答が出口に届く。
つまり、0個だったら答えがわからないのだ。
N個だったら案が複数でる。一つに絞りたいのであれば再び入り口に戻せばよい。

これらのことを全て踏まえると、脳のモデルは以下のようになる。

(1)のルートをとおって判断する場合は、無意識化で判断材料も少なく高速に完了する。
(2)のルートをとおる場合、一度意識化まで戻って判断し、再びその結果をもとに検索を行う。
つまり、意識化での検索はこのようなルートではないか?
レストランでメニューに迷うときなどがこのパターンだろうか。
今、思いついたのだが、意識と無意識の間に共通で使われる記憶があるかもしれない。

無意識が意識に近い、または意識が無意識に近づいていくことはどのようなことなのか?
というのが今後の課題であろう。
先ほどの仮定を正しいとするならば、短期記憶は意識のもっとも上の方で、長期記憶になるたびに下の無意識レベルに近づいていく。

では、無意識の一番底はなんなのか?
また横軸(脳ならばZ軸も)にどのように記憶を配置するのか。
軸方向に何か意味はあるのか?

(01/5/22 追記:情報は入力されても、必ずしも出力されないという点は重要ですね。ではその情報の廃棄プロセスはどうなっているのか?)


本能

無意識下内にある強力な「結論」。
ものごとの判断基準として、かなり重要な位置を占める。
変更はかなり難しい。
つまり、これが無意識の一番底にあるのではないか?


言語

「言語は思考の範囲を束縛する」だかなんだか、似たような意味の言葉があるが、
意識化におけるものは、言語として表現できるものしかおけないのではないか?
ただし、この場合は映像なども超広義の言語に含めることになるが。
例えば、この脳のモデルが犬のものだったとしよう。
そうした場合、犬の持つ言語は「吠える(数種)」「尻尾を振る」で、感情を表現する程度しかできない。
つまり、そのくらいしか意識化では考えることができないのではないだろうか?
 

2001/8/14:追加(同日追加された上記項目の続き)
結局この脳の中で判断されることはなんだろうか?
知能とはいったいなんなのであろうか?
私は少なくとも、動物にも知能はあると考えている。
動物でさえ、人間と同じように、食って寝て遊んで繁殖しているのだ。
彼らに知能がないと定義するならば、知能というものは「人間の言葉でしゃべる言語」ということになる。
しかし、その定義は明らかに間違っている。
将棋専門人工知能を考えてみよう。彼に言語は必要だろうか?
彼は言語でものを考えているのだろうか?
将棋のプロは一手一手、「こうなって、ああなって、こうなって」と言語で考えているだろうか?
答えは否である。
つまり、人工知能作成において言語は必須条件ではない。(上記言語の項目の超広義の言語は必須と考えているが)
言語でさえ、さきほど述べた知能からの出力手段の一つでしかないのである。

結局知能とはなんなのだろうか?
とりあえず、つまらないがありふれた定義を示して終了させておく。
「継続的に、何らかの入力に対し、「推論、学習、情報の廃棄」のうちいずれかあるいは複数の行為を行う。その結果、何らかの出力があった場合、出力を行うシステム」

しかし、重要な点を忘れていた。そう「忘れる」というシステム。しかし、これは知能の中で自動的に行われる機能であり、外側から見た知能という点では影響はない。



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