>
モノーキ

幸せとは?



04/2/29

幸せというものは相対的なものでなく、絶対的なものである。
幸せというものは客観的なものでなく、主観的なものである。

生きるのも満足にできない人にくらべれば、今の日本に暮らしている人のほとんどが幸福である。
生きるのも満足にできない人が、生活が安定したからといって幸せを感じるかというと、必ずしもそうではない。
むしろ、今の幸福な立場を忘れて、新たな悩みをかかえて、それについてまた悩むであろう。
きっと世界中すべてが、仕事をロボットが肩代わりして人間は働かず、福祉も完璧、すべての商品が無料な世界になっても、不幸を感じる人は不幸なのだ。

どんなに悲惨な境遇でも、幸福を感じられればその人は幸福だし、
どんなに恵まれた境遇でも、不幸を感じる人は不幸なのだ。
言い換えれば、境遇はどうあれ一番幸福を感じていた人が一番幸福なのであり、
一番不幸を感じる人は、どんなに恵まれていても一番不幸なのである。

幸福とはアドレナリン分泌のようなものだと思う。
何かよいことなどのきっかけがあれば、アドレナリンが分泌されて幸せを感じる。
逆に不幸とはアドレナリン分泌とは違い、人間の思考の産物だ。
少し考える時間があれば、問題点をさがし、それを解決しようとする。
しかし、そんな簡単に問題が解決するわけでもなく、思い悩み、不幸を感じる。

結局、人間は不幸を追い求める生き物なのだ。
心理学では欲求のなんちゃら段階といっていたが、
人間は普段は常に新たな悩みの種を勝手に見つけてきて、勝手に悩む。
これは本能的なものだ。
不幸を感じることによって、人間は問題を探して解決する意欲がわく。
常に現状で満足していては、今日までの文明の発展というものはありえなかった。
幸か不幸か、常に満足する人間よりも、常に不幸を感じる人間の方が遺伝子的に優秀だった。
常に幸福を感じる人間は遺伝子を残すことも考えない。もしくはその欲求が極めて低い。
それだけのことである。

「アルジャーノンに花束を」は「知恵、知識があれば幸福か?」というテーマを掲げていたが、
ここまで読んでくれた人なら、その答えは明確にNoであることがわかる。
知恵があろうとなかろうと本人が、幸福を感じていたかどうかだけが問題なのだ。
いじめられていることにすら気づかず、彼らを親友と信じているチャーリーが、一番幸せだったのだ。
他の人から見て、どんなに不幸に見えたとしても。

ではどうやったら幸福になれるのか?つまり幸福を感じられるのか?
幸福とはアドレナリン分泌のようなものと仮説を立てたが、これが正しければの話であるが。
万物すべてに敬意を抱き、どんな小さなことでも感謝し、
常にアドレナリンを放出し、アドレナリンが出やすい状態にするのはどうだろう?
他人の問題点を探していると、解決できない問題が多く出てきて不幸を感じてしまうので、
それをやめてみたらどうだろう?

禅の悟りみたいな結論だが、長年の経験と、考え出した理論の結末が一致するのは、
その仮説が正しいとは言えないまでも、大変興味深いことであるといえよう。


モノーキ
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送