モノーキ

なんで人を殺しちゃいけないの?



あまり脈絡のない調査をしたあげく、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という関係のない問題にたどり着く。

参考意見をいろいろ探してみたが、面白い意見は中々ない。
だいたい「自分が死にたくないから、相手も殺しちゃいけない」というところにたどり着く。
しかし、この論法の問題点は、「自分がしんても良い奴は、人殺しをしても良い」、「俺を殺したら駄目だが、他人を殺すのはOKというキチガイ」、「殺してはいけないのになぜ国は死刑制度が存在するのか?」という問題にたどり着く。

そんななか面白かったのは「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問題は、「なぜうんこを触ってはいけないのか?」という問題と等価だということを述べていたサイトだ。
で、この日記を見て気がついたのは、よく考えれば「なぜ人を殺してはいけないのか?」、は「なぜ人の物を盗んではいけないのか?」や、「なぜ人をだましてはいけないのか?」という問題と等価だ。
「人を殺してはいけない」という事実が仮にあったとして、だからといって「人のものを盗んでも良い」ということはありえない。

つまり、この問題をより抽象的に表現するならば、「なぜ人に害を与えてはいけないのか?」という問題に他ならない。
「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問題は、「他人に与える害」の中でも現在最上級に位置されているにすぎない。他人のお金を盗んで、そのせいで食べ物が買えず餓死する。「人を殴ったら死んじゃった」、ということもありうるということを考えれば、これらの問題が明確に区別できる問題ではないということがわかろう。
つまり、殺すのも盗むのも他人への害の程度の差の問題だ。

OK?

では、「なぜ人に害を与えてはいけないのか?」という問題になろう。
仮に「人に害を与えてもよい。」としよう。
そうなると、楽に生きるには他人から物を奪って生きるのが一番ということになる。

なぜならば、地道な生産者の立場になったとしよう。しかし、人が何でもしてくるという世界の場合、自分が生産したものが自分のものになるとは限らない。つまり、自分の生産したものを自分で守らなければならない。
しかし、生産したものを守るというのは容易ではない。強盗から身を守るにしたって、最低でも強盗を同様の装備を入手しなければならない。しかも他人がどこから、どれだけの勢力で襲ってくるのかわからないのだ。つまり、強盗側に身を置く人間ならば、強盗用アイテムの準備でいいのだが、通常の生産者は生産量+防衛費というコストがかかる。どちらが楽であるのかは容易に判別可能であろう。しかも、常に教われる側になる可能性の高い通常の生産者は、襲われやすいという理由から死亡率が極めて高くなる。
そうなった場合、生産者が激減し、結局のところ生産者から搾取する強盗側の人間も生きていけなくなる。
余談ではあるが、このモデルを考えたとき、ゲーム理論における「囚人のジレンマ」とそっくりな状況なのが興味深いところだ。

このような理由により、「人に害を与えて良い」という社会モデルは成り立たないわけだ。
つまり、自分自身を含む人類最大の利益を得るためには、「人に危害を与えてはならない」。その中に「人を殺してはならない」ということも含まれるのである。
 
 
 

補足として、最初の問題である
「自分がしんても良い奴は、人殺しをしても良い」、「俺を殺したら駄目だが、他人を殺すのはOKというキチガイ」
を今の問題に置きかえると、
「自分が害を加えられて良い奴は、害を加えても良い」、「俺に害を加えたら駄目だが、他人に害を与えるのはOK」
となるわけだが、前者のような人は当然社会には認められた存在である。
このような人のために、平等に効率的に加害者に害を加える「刑務所」というものが生まれてきたのだ。
よって、人を殺すことを行った奴には、それ相応の死刑という害を与えられる。
 

つまり問題になるのは、「俺に害を加えたら駄目だが、他人に害を与えるのはOK」というファッキンなやろうだが、
これは前述の『自分自身を含む人類最大の利益を得るルールが、「人に危害を与えてはならない」』というモデルに例外を認めるか?という問題になる。
これは過去に多く存在した(現在でも一部存在している)奴隷制度にも通じる。
先ほどの例でいえば、人類絶滅へ走ってしまった問題点は、皆に「人に害を与えてもよい。」という権利を与えてしまったということだ。
では仮に一部の人にのみ「人に害を与えてもよい。」という権利を与えたらどうだろう?
簡単に思いつく問題として、「誰にその権利を与えるのか?」ということがあげられる。
権利を与える権利を個人に与えてしまった場合、これは結局のところ「人に害を与えてもよい。」という権利を全ての人に上げるのと等価だ。よって、個人が勝手に「俺は危害を与えてもよい」とはいえない。

では、だれかが「人に害を与える権利」を配った場合はどうだろう?
このような場合、、「人に害を与える権利」を持った人と、持たない人の2者の階層構造が成り立つ。「人に害を与える権利」を持った人間からの搾取に対し、「人に害を与える権利」を持たない人間は対抗するすべが存在しない。
そうした場合、「人に害を与える権利」を持つ人間は事実上、「人に害を与える権利」を付与する側に回ることが可能だ。なぜならば、「人に害を与える権利」を配る人間が「人に害を与える権利」を持たないものだった場合、「人に害を与える権利」を行使ししてその権利を奪うことが可能だからである。
このような状態になったとき、「人に害を与える権利」を持った人間は事実上「人に害を与える権利」の有効範囲内の独裁者になることが可能である。独裁者が過去にどのような過ちを犯してきたかは歴史が証明するため、詳しい説明は省く。

よって、一部の人にのみ「人に害を与える権利」を与えるということは認められない。
 

それでも、「俺を殺したら駄目だが、他人を殺すのはOKというキチガイ」はいる。
つまり、上記の特例をどうしても欲しがる人間だ。
仮に上記の仮説が正しいのであれば、「俺を殺したら駄目だが、他人を殺すのはOKというキチガイ」の行動は論理的に正しくない。よって「自分が害を加えられて良い奴は、害を加えても良い」というルールを強制的に当てはめて対処すれば良い。
(lemon氏の指摘を参考に追加:
仮に「俺を殺したら駄目だが、他人を殺すのはOKというキチガイ」の適用を認めたとしよう。そうすると、全ての人間は「俺を殺したら駄目だが、他人を殺すのはOKというキチガイ」というのを適用したとしよう。そうした場合、誰も人を殺せなくなるか、誰も殺されなくなってしまいます。というわけで、このモデルは成り立たないのです。)

ふぅ、つかれた。
まだ精神病、少年、あとは生存競争化の状況とか少し穴があるがいいや。



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